Home
1198 words
6 minutes
「水と油」はなぜ混ざらない? MDで見る理想溶液と相分離

last_modified: 2026-01-09

1. 理想と現実の境界線#

化学において、溶媒と溶質が分子レベルで完全にランダムに混ざり合う溶液を 理想溶液 (Ideal Solution) と呼びます。 理想溶液が成立する条件は、「成分A同士、成分B同士、そして異なる成分A-B間の引力がすべて等しい」 ことです。このとき、有名なラウールの法則などが厳密に成り立ちます。

しかし、現実はそう単純ではありません。水とエタノールは混ざりますが、水と油は分離します。 この「混ざりやすさ」の違いを、分子動力学シミュレーションで再現してみましょう。

※モデルに関する注釈: このシミュレーションでは、水や油の分子構造を精密に再現したものではなく、Lennard-Jonesポテンシャルを持つ単純な球形粒子を用いています。「水と油」という言葉は、性質の異なる2つの液体の比喩として用いています。


2. 実験ガイド:パラメータで見る溶液の性質#

実験 A: 理想溶液(Ideal Solution)#

  • 設定: Hetero-Affinity1.0 に設定します。
  • 現象: 青い粒子と黄色い粒子は、全く区別なく均一に混ざり合います。
  • 理論: AAA-AABA-B の相互作用エネルギーが等しいため、混合に伴うエネルギー的な損得(エンタルピー変化 ΔH0\Delta H \approx 0)がありません。このとき、系はエントロピー増大則(乱雑になりたいという自然の傾向)に従って、混ざり合います。

実験 B: 相分離(Phase Separation)#

  • 設定: Hetero-Affinity0.5 以下 に下げてください。
  • 現象: 時間が経つにつれて、青は青同士、黄色は黄色同士で集まり始め、最終的にくっきりと分離します。
  • 理論: 異種間の引力が弱いため、異なる分子が隣り合うとエネルギー的に損をします(ΔH>0\Delta H > 0)。温度が低い場合、エントロピーによる「混ぜる力」よりも、エンタルピーによる「分ける力」が勝り、相分離が起こります。これは実在溶液(非理想溶液)の典型的な挙動です。

3. 熱力学的な解説:自由エネルギーの戦い#

物質が混ざるか混ざらないかは、ギブスの自由エネルギー変化 (ΔG\Delta G) で決まります。

ΔGmix=ΔHmixTΔSmix\Delta G_{\text{mix}} = \Delta H_{\text{mix}} - T \Delta S_{\text{mix}}

  • ΔSmix\Delta S_{\text{mix}} (エントロピー項): 混ざることで乱雑さが増すため、常にプラスの値になります。TΔS-T\Delta S はマイナスになり、系を**「混ぜよう」**とします。
  • ΔHmix\Delta H_{\text{mix}} (エンタルピー項): 分子間の結合エネルギーの変化です。
    • 「水と油」のように相性が悪い(異種間引力が弱い)場合、混ざるにはエネルギーが必要(吸熱)となり、ΔH\Delta H はプラスになります。これは系を**「分けよう」**とします。

この式の TT(温度)に注目してください。

  1. 低温のとき: TΔST \Delta S の項が小さいため、ΔH\Delta H(分けようとする力)が支配的になり、分離します。
  2. 高温のとき: TΔST \Delta S の項が大きくなり、ΔH\Delta H を打ち消して混合します。

シミュレータで「分離している状態」から Temperature を上げてみてください。ある温度(上部臨界共溶温度に相当)を超えると、再び混ざり始める様子が観察できるはずです。


4. 溶解度の限界(Solubility)#

シミュレータで Hetero-Affinity を低くして分離させた状態でも、よく見ると「相手の領域に迷い込んだ粒子」がごく少数存在することがあります。

これはシミュレーションの誤差ではなく、**「溶解度(Solubility)」**を表しています。 熱力学的には、完全に純粋な状態で分かれるよりも、ごく微量が混ざった方がエントロピー的に有利な場合があります。そのため、どんなに混ざりにくい液体同士でも、理論上はゼロではない溶解度を持ちます(飽和濃度)。


5. まとめ#

  • 理想溶液: 分子間に好みの差がない。エントロピーの効果だけで混ざる。
  • 実在溶液(相分離): 分子間に好き嫌いがある。
    • 嫌いな度合い(反発)が強いと、エントロピーに打ち勝って相分離する。
    • 温度を上げると、エントロピーの応援により混合しやすくなる。

この単純なモデルでも、高分子のブレンドや合金の析出、ドレッシングの分離など、自然界の様々な現象に通じる基本原理を観察することができます。

「水と油」はなぜ混ざらない? MDで見る理想溶液と相分離
https://ss0832.github.io/posts/20260111_solution_chemistry/
Author
ss0832
Published at
2026-01-09
License
CC BY-NC-SA 4.0

Related Posts

氷から水、そして蒸気へ:Lennard-Jones流体で見る相転移シミュレーション
2026-01-09
物質の三態(固体・液体・気体)はどのようにして決まるのか? 分子間相互作用(Lennard-Jonesポテンシャル)を導入した分子動力学シミュレーションを行い、温度変化によって粒子が結晶化したり、蒸発したりする様子をブラウザ上で観察する。
NVE vs NVT: 分子動力学シミュレーションで見る統計アンサンブルの世界
2026-01-09
単一の軌跡(Trajectory)を追うだけでは見えない化学反応の本質がある。多数の粒子を用いた分子動力学(MD)シミュレーションにより、エネルギー保存則に従うミクロカノニカル(NVE)と、温度一定のカノニカル(NVT)アンサンブルの違い、そして反応速度論における再交差現象を可視化する。
有機化学反応におけるポテンシャルエネルギー曲面上の分岐とValley-Ridge Inflection点:理論的背景から酵素反応まで
2026-01-03
Daniel H. EssとK. N. Houkらによる2008年の先駆的総説を出発点とし、Valley-Ridge Inflection (VRI) 点の数学的定義、Ambimodal遷移状態、そしてテルペン生合成や酵素反応(SpnF)における最新の動的選択性の研究成果までを包括的に解説する。
Pummerer型転位反応におけるPost-Transition State Bifurcationと溶媒依存的な動的選択性:詳細解説
2026-01-03
Stephanie R. Hare, Da Ang Li, Dean J. Tantilloらによる2018年の論文『Post-transition state bifurcations induce dynamical detours in Pummerer-like reactions』(Chem. Sci., 2018, 9, 8937) を基に、有機反応における動的選択性、Ambimodal遷移状態、および溶媒効果による選択性制御の可能性について、数理的・物理化学的視点から詳細に解説する。
分子動力学と座標駆動法の統合による自動反応経路探索 (MD/CD) 法の理論と展開
2026-01-03
2017年にYangとLiらによって提案された、分子動力学 (MD) と座標駆動 (CD) 法を組み合わせた自動反応経路探索手法 (MD-CD法) について詳説する。大規模な配座空間を持つ複雑な分子系において、低コストなMMかSemi-empirical MDによる配座サンプリングと、修正CD法による反応探索を統合した本手法のアルゴリズム、数学的定式化、およびClaisen転位やDiels-Alder反応への適用事例を学術的な観点から解説する。
Conductor-like Polarizable Continuum Model (C-PCM) の理論的構成:導体境界条件に基づく溶媒効果の定式化と解析的微分
2026-01-02
量子化学計算における連続誘電体モデルの一つであるC-PCM (Conductor-like Polarizable Continuum Model) について、その理論的枠組みを解説する。KlamtらによるCOSMO法の概念がいかにしてPCM形式に統合され、BaroneとCossiによって解析的エネルギー勾配法として確立されたか、その数理的背景、導出過程、および計算化学的特性を詳述する。