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NVE vs NVT: 分子動力学シミュレーションで見る統計アンサンブルの世界
last_modified: 2026-01-09
1. 1つではなく、1000個の「もしも」を
前回の記事では、1つの粒子がポテンシャル曲面を転がる様子を見ました。しかし、現実の化学反応系(フラスコの中)にはアボガドロ数個の分子が存在します。
統計力学において重要なのは、個々の粒子の動きではなく、集団としての分布(Distribution) です。 今回は、新たに実装した 多粒子MDシミュレータ を使って、アンサンブル(統計集団) の概念を体感してみましょう。
2. 実験:2つのアンサンブル
シミュレータの「Ensemble」設定を切り替えて、粒子の挙動の違いを観察してください。
2.1 NVE アンサンブル (Microcanonical)
- 設定: 粒子数 , 体積 , エネルギー が一定。
- 物理的意味: 外部と熱のやり取りをしない「断熱系」。
- 挙動: 摩擦がゼロです。粒子は永久に動き続け、ポテンシャルの谷底に落ちても、運動エネルギーを得て再び壁を駆け上がります。全体のエネルギー(位置エネルギー+運動エネルギー)は保存されます。
- 観察:
Muller-Brown関数でスタートすると、粒子はポテンシャルの井戸の中を行ったり来たり振動し、決して止まりません。
2.2 NVT アンサンブル (Canonical)
- 設定: 粒子数 , 体積 , 温度 が一定。
- 物理的意味: 熱浴(Heat Bath)と接触している「等温系」。
- 挙動: 摩擦()とランダムな熱ノイズを受けます。粒子は最終的に、温度 に応じたボルツマン分布 に落ち着きます。
- 観察: 時間が経つと、粒子はポテンシャルの低い場所(安定構造)に多く集まりますが、一部の粒子は熱エネルギーを得て、高い場所(遷移状態)へ飛び出していきます。
3. 再交差(Recrossing)の統計的解釈
前回の記事で、1つの粒子が「峠を越えて戻ってくる」現象(再交差)を紹介しました。これを多粒子系で見ると、より劇的な光景が見えます。
実験手順
- Function:
Muller-Brown(反応経路がカーブしている) - Ensemble:
NVT - Start: 左上の極小値(反応物)付近をクリックして、100個程度の粒子を発生させます。
何が起きるか?
粒子群は徐々に広がっていき(拡散)、一部が鞍点(峠)を越えて右下の生成物側へ流れ込みます。しかし、峠付近をよく見ると、「一度右側へ行ったのに、集団の流れに逆らって左側へ戻ってくる粒子群」 が観測できるはずです。
これが意味するのは、「遷移状態(峠の頂上)にある分子の集団のうち、実際に反応を完遂できるのはその一部だけである」 ということです。この割合(透過係数 )こそが、単純な遷移状態理論(TST)と現実の反応速度のズレを生む原因なのです。
4. まとめ
最適化(Optimization)は「最も安定な1点」を探すのに対し、分子動力学(MD)は「確率分布の時間発展」を扱います。 このシミュレータを通じて、温度(Temperature)や摩擦(Friction)が、化学反応というレアなイベントにどのような影響を与えるか、直感的な理解が深まれば幸いです。
NVE vs NVT: 分子動力学シミュレーションで見る統計アンサンブルの世界
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