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「査読済み」は「真実」と同義ではない:学術論文における誤謬と科学の自己修正プロセス

last_modified: 2026-01-04

免責事項: 本記事は、科学史における特定の事例や統計的な概念上の問題を整理するために作成された解説記事です。取り上げる事例は過去の失敗例として広く知られているものですが、特定の個人や団体を不当に貶める意図はありません。科学とは「間違いを修正し続けるプロセス」であることを主眼としています。

1. 序論:科学における「権威」の落とし穴#

「論文に書いてあるから正しい」という論法は、アカデミアの世界でも、一般社会の科学コミュニケーションにおいても頻繁に見受けられる。特に、Impact Factorの高い著名なジャーナルに掲載された査読済み論文(Peer-Reviewed Paper)は、しばしば疑いようのない事実として扱われる傾向がある。

しかし、歴史を紐解けば、後に誤りであると証明された「画期的な論文」は枚挙にいとまがない。1960年代の「ポリウォーター」騒動や、心理学・医学における近年の「再現性の危機(Replication Crisis)」は、査読というシステムが完全な防波堤ではないことを示唆している。

本稿では、学術論文が誤るメカニズムを「実験的アーチファクト」「統計的バイアス」「意図的な不正」の観点から分類し、我々がいかにして科学情報と向き合うべきか、そのリテラシーについて詳述する。


2. 実験的アーチファクト:ポリウォーターの教訓#

研究者が誠実であっても、実験器具や環境が生み出すノイズ(アーチファクト)を「新発見」と誤認してしまうケースがある。最も有名な例が、冷戦下の科学界を揺るがした「ポリウォーター(重合水)」である。

2.1 異常な水の発見#

1960年代、ソビエト連邦のFedyakinらは、石英キャピラリー内で凝縮させた水が、通常の水とは全く異なる物性(高い沸点、低い凝固点、高い粘度)を示すと報告した。この「異常水」は、後にDerjaguinらによって西側に紹介され、「ポリウォーター」として世界的な注目を集めた。 NatureやScienceといった一流誌でも盛んに議論され、一時は「金星の雲はポリウォーターでできているのではないか」といった説まで飛び出した。

2.2 構造解析と終焉#

当時の分光学的解析も、通常の水とは異なる構造を示唆しているように見えた。しかし、世界中の化学者が追試を行った結果、1970年代に入り、その正体が明らかになった。 それは新しい水の形態ではなく、実験器具であるガラス管から溶け出したケイ酸塩や、人間の汗(乳酸ナトリウムなど)による不純物の濃縮溶液であった。

この事例は、観察された現象自体は嘘ではなくても、その「解釈」が完全に誤りである可能性を示している。微量分析におけるコンタミネーション(汚染)が、いかにして世界的な誤解を生むかという教訓である。


3. 統計的バイアスと「P値」の呪縛#

現代の科学、特に生命科学や社会科学においてより深刻な問題は、実験器具の汚れではなく、データ解析における「統計的な汚れ」である。

3.1 P値ハッキング(P-hacking)#

多くの学術誌では、統計的有意差の基準として p<0.05p < 0.05 を採用している。これは「偶然そのようなデータが得られる確率が5%未満」であることを意味するが、これは「95%の確率で仮説が正しい」ことを意味しない。 研究者が意図的か否かに関わらず、有意差が出るまでデータを分割したり、変数を操作したりする行為は「P値ハッキング」と呼ばれ、再現性のない論文を量産する原因となっている。

3.2 検出力不足と陽性適中率#

Ioannidisは2005年の衝撃的な論文 “Why Most Published Research Findings Are False” において、サンプルの少なさ(低い検定力)や、偏った仮説設定が組み合わさると、公表された研究成果の過半数が誤りである可能性があると数学的に指摘した。 特に、流行のトピックで多くの研究チームが競争している分野ほど、偶然のノイズを有意差として報告してしまうリスク(第一種の過誤)が高まる。


4. 査読システムの限界と意義#

なぜ、誤った論文が査読を通過するのか。それは査読システム(Peer Review)に対する過度な期待に起因する。

4.1 査読は何をチェックしているか#

査読者は通常、2〜3名の同分野の研究者である(2024~2025年現在では、例えばJACSやACIEは3名の匿名の査読者が審査を行う。)。彼らは論文の論理的整合性、実験手法の妥当性、新規性をチェックするが、実験そのものを再現してデータを検証するわけではない。 したがって、巧妙な画像の捏造や、生のデータに潜む統計的な操作を見抜くことは極めて困難である。査読は「最低限の品質保証」であって、「真実の証明」ではない。

4.2 撤回(Retraction)は不名誉か#

論文が出版された後に誤りが見つかり、取り下げられることを「撤回(Retraction)」と呼ぶ。 STAP細胞事件のような不正による撤回は論外であるが、著者が自ら誤りに気づき、誠実に撤回を行うケースは、むしろ科学の自浄作用が機能している証左として評価されるべきである。 Webサイト「Retraction Watch」などは、こうした撤回情報を監視し、科学の透明性を高める役割を果たしている。


5. 結論:科学的リテラシーの再定義#

科学論文に誤りが含まれることは避けられない。重要なのは、一つの論文を「ゴール」として見るのではなく、長い議論の「プロセスの一部」として捉える姿勢である。

  1. 単一の研究を過信しない: 一つの論文で結論づけるのではなく、複数の研究グループによる追試(Replication)や、メタアナリシス(統合解析)の結果を待つ必要がある。
  2. 「インパクト」より「堅実さ」: 派手な結論を急ぐ論文よりも、地味ではあるが堅実な手法で積み上げられたデータを評価する目が求められる。
  3. 誤りを許容する文化: 科学は「間違えること」によって、より高い精度の真実へと近づく。過去の論文の誤りを指摘することは、科学への貢献であり、批判そのものを否定してはならない。

EvansとPolanyiが遷移状態理論で示したように、科学もまた高いエネルギー障壁(批判と検証)を乗り越えて、より安定した理解(生成系)へと進むダイナミックな過程なのである。


参考文献#

  • Ioannidis, J. P. A. “Why Most Published Research Findings Are False”. PLoS Med. 2005, 2(8), e124.
  • Lippincott, E. R.; Stromberg, R. R.; Grant, W. H.; Cessac, G. L. “Polywater”. Science 1969, 164, 1482-1487.
  • Rousseau, D. L.; Porto, S. P. S. “Polywater: Polymer or Artifact?“. Science 1970, 167, 1715-1719.
  • Simmons, J. P.; Nelson, L. D.; Simonsohn, U. “False-Positive Psychology: Undisclosed Flexibility in Data Collection and Analysis Allows Presenting Anything as Significant”. Psychol. Sci. 2011, 22, 1359–1366.
  • Open Science Collaboration. “Estimating the reproducibility of psychological science”. Science 2015, 349, aac4716.
「査読済み」は「真実」と同義ではない:学術論文における誤謬と科学の自己修正プロセス
https://ss0832.github.io/posts/20260103_sci_literacy_retraction/
Author
ss0832
Published at
2026-01-04