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有機化学における「ひずみ(Strain)」の概念:Wibergによる定量的評価と反応性制御の包括的レビュー

last_modified: 2026-01-03

免責事項: 本記事は、Kenneth B. Wibergによる論文 Angew. Chem. Int. Ed. Engl. 1986, 25, 312-322 を基に、生成AIによって作成された解説記事です。記事の内容は原著論文の記述に忠実であることを目指していますが、詳細なデータや正確な引用については必ず原著論文を参照してください。

1. 序論:ひずみ理論の歴史的展開と熱化学的基盤#

1.1 構造論の黎明とBaeyerの張力説#

有機化学における「ひずみ(Strain)」の概念は、分子の幾何学的構造と熱力学的安定性を結びつける最も基本的かつ強力な物理量のひとつである 。その起源は、化学結合の性質そのものが問われ始めた19世紀後半にまで遡る。 1858年、KekuléとCouperは炭素原子が四価であることを独立に提唱し、有機化学の構造理論の基礎を築いた 。その後、1874年にvan’t HoffとLe Belが、炭素原子の4つの原子価が正四面体の頂点方向に向かうこと(結合角 10928109^{\circ}28')を提案したことで、分子を三次元的な物体として捉える立体的理解が飛躍的に進歩した 。

この立体化学的視点を環状化合物の安定性議論に初めて適用したのが、Adolf von Baeyerである。1885年、彼は「張力説(Strain Theory)」を提唱した 。Baeyerの理論の核心は、以下の仮説に基づいている :

  1. 炭素原子の原子価は、正四面体の中心から頂点へ向かう方向(相互に 10928109^{\circ}28')に作用する。
  2. 環形成などによってこの角度が偏向(deviation)すると、その偏向量に比例した張力(ひずみ)が分子内に生じる。
  3. このひずみが増大するほど、化合物は不安定になる。

Baeyerはこの理論を用い、当時知られていたシクロプロパン(3員環)やシクロブタン(4員環)が、通常の直鎖アルカンよりも反応性が高く不安定であることを正しく説明した 。彼の推論によれば、正三角形(6060^{\circ})や正方形(9090^{\circ})への角度圧縮は、理想角からの大きな逸脱を伴うためである。

しかし、Baeyerの理論には重大な欠陥があった。彼は、シクロペンタン(5員環)やシクロヘキサン(6員環)、さらにはそれ以上の大員環に至るまで、すべての環状化合物が「平面構造」をとると仮定してしまったのである 。この仮定に基づくと、シクロペンタン(108108^{\circ})は理想角に近く最も安定であるが、シクロヘキサン(120120^{\circ})以上では角度が拡大しすぎるため、環が大きくなるほど不安定になるという誤った結論が導かれる。実際には、Sachse(1890年)らが指摘したように、シクロヘキサン以上の環は「椅子型」や「舟型」などの非平面構造(パッカー構造)をとることで結合角ひずみを解消しており、大員環が必ずしも不安定ではないことは現在の常識となっている。Baeyerの説は、小員環の不安定性を予見した点では先駆的であったが、分子の柔軟性を見落としていた点で修正を余儀なくされた。

1.2 合成化学的実証と熱化学的定量化#

Baeyerの研究室に在籍していたPerkinは、師の理論的示唆を受け、1884年にシクロプロパンおよびシクロブタン誘導体の初めての指向的合成を報告した 。これにより、ひずみを持つ化合物が実在することが証明されたが、その「ひずみ」の大きさを定量的に議論できるようになるまでには、さらに半世紀の時間を要した。

1940年代から50年代にかけて、精密な燃焼熱測定技術が確立され、シクロプロパンやシクロブタンの生成熱(ΔHf\Delta H_f^{\circ})が実験的に決定された 。 ひずみエネルギー(Strain Energy, SE)は、観測された生成熱と、ひずみを持たないと仮定された仮想的なモデル化合物の生成熱との差として定義される 。

SE=ΔHf(observed)ΔHf(model)SE = \Delta H_{f}^{\circ}(\text{observed}) - \Delta H_{f}^{\circ}(\text{model})

ここで「モデル化合物」の定義には任意性が伴うが、一般的には直鎖アルカンのメチレン基(CH2-CH_2-)の増分値(Franklinによる値など)が用いられる 。例えば、シクロヘキサン(SE 0\approx 0)を基準とするならば、メチレン基1つあたりの寄与は 4.92 kcal/mol-4.92 \text{ kcal/mol} となる 。シクロプロパン(3個のメチレン基)の計算上の生成熱は 14.75 kcal/mol-14.75 \text{ kcal/mol} となるはずだが、実測値は +12.73 kcal/mol+12.73 \text{ kcal/mol} である 。この差、約 27.5 kcal/mol27.5 \text{ kcal/mol} がシクロプロパンのひずみエネルギーとなる 。 このようにして定義されたひずみエネルギーは、分子内の結合長、結合角、ねじれ角、および非結合原子間の相互作用が、理想的な平衡値から強制的に変位させられた結果生じるポテンシャルエネルギーの総和として理解される 。


2. ひずみの物理的起源:分子力学ポテンシャルによる記述#

分子が持つ総エネルギー VTV_T は、量子力学的には電子の運動エネルギー TT、電子-核間のポテンシャルエネルギー V1V_1、電子間反発 V12V_{12}、および核間反発 VNV_N の和として記述される 。

VT=T+V1+V12+VNV_T = T + V_1 + V_{12} + V_N

メタンが正四面体構造をとるのは、これら4つの項のバランスの結果である。特に、核間反発項 VNV_N(プロトン間のクーロン反発)を最小化しようとする力が、結合角を最大化(10928109^{\circ}28')させる主要因となっている 。 有機化学における「ひずみ」を定量的に扱うためには、この複雑な量子力学的エネルギーを、より直感的な古典力学的モデル、すなわち分子力学(Molecular Mechanics)におけるポテンシャル関数で近似することが有効である 。 ひずみエネルギーは主に以下の4つの構成要素の和として表される 。

2.1 結合長変形(Bond Stretching)#

化学結合の伸縮に伴うエネルギー変化 VrV_r は、平衡結合長 r0r_0 からの変位 Δr\Delta r に対する調和振動子(フックの法則)として近似される 。

Vr=kr(Δr)2V_r = k_r (\Delta r)^2

ここで krk_r は結合の伸縮力定数である。IR(赤外)分光法から求められる C-C 結合や C-H 結合の krk_r は約 5 mdyn/A˚5 \text{ mdyn}/\text{\AA}(エネルギー単位換算で約 360 kcal mol1A˚2360 \text{ kcal mol}^{-1} \text{\AA}^{-2})と非常に大きい値を持つ 。 これは、結合長をわずか 0.1A˚0.1 \text{\AA} 伸長または圧縮させるだけで、約 3.6 kcal/mol3.6 \text{ kcal/mol} ものエネルギー上昇を招くことを意味する 。したがって、分子は構造変形を強いられた際、エネルギーコストの高い結合長の伸縮よりも、より柔軟な結合角の変形やねじれ角の変化によってひずみを吸収しようとする傾向がある 。結合長が顕著に変化するのは、[1.1.1]プロペランの中心結合のような極限的な場合や、遷移状態付近に限られることが多い 。

2.2 結合角変形(Angle Bending)#

結合角 θ\theta の変形によるエネルギー VθV_{\theta} も同様に調和近似で記述される 。

Vθ=kθ(Δθ)2V_{\theta} = k_{\theta} (\Delta \theta)^2

シクロヘキサン等の分光データに基づく C-C-C 結合角の力定数 kθk_{\theta} は約 0.8 mdyn/A˚0.8 \text{ mdyn}/\text{\AA}(約 0.0175 kcal mol1degree20.0175 \text{ kcal mol}^{-1} \text{degree}^{-2})である 。 結合長変形と比較して力定数が1桁以上小さいため、±5\pm 5^{\circ} 程度の角度変化であれば、エネルギー上昇は 0.5 kcal/mol0.5 \text{ kcal/mol} 以下と微小である 。この柔軟性が、多くの有機分子が配座異性体を容易に生じる理由である。 ただし、シクロプロパン(6060^{\circ})やシクロブタン(9090^{\circ})のような極端な変形においては、単純な調和近似(Δθ\Delta \theta の2乗)では記述が不十分となり、高次の項や混成軌道の再混成を考慮した特別な取り扱いが必要となる 。

2.3 ねじれひずみ(Torsional Strain)#

結合軸周りの回転(内部回転)に伴うエネルギー変化 VϕV_{\phi} は、ねじれ角 ϕ\phi を用いたフーリエ級数として表現される 。

Vϕ=V12(1+cosϕ)+V22(1+cos2ϕ)+V32(1+cos3ϕ)V_{\phi} = \frac{V_1}{2}(1 + \cos \phi) + \frac{V_2}{2}(1 + \cos 2\phi) + \frac{V_3}{2}(1 + \cos 3\phi)

飽和炭化水素(アルカン)の場合、3回対称性を持つ V3V_3 項が支配的である。エタンの回転障壁(約 3 kcal/mol3 \text{ kcal/mol})は、主にこのねじれひずみに由来する。 例えば、シクロブタンが平面構造をとると仮定すると、隣接するメチレン基の C-H 結合がすべて「重なり配座(eclipsed conformation)」となり、ねじれひずみが極大化する 。これを回避するために、分子は結合角ひずみの増加を犠牲にしてでも、環を折れ曲がらせる(puckering)ことでねじれ角をずらし、安定化を図る 。この「ねじれひずみ」と「結合角ひずみ」のトレードオフは、環状化合物の配座決定における中心的原理である。

2.4 非結合相互作用(Nonbonded Interactions / Steric Strain)#

直接結合していない原子間の相互作用(ファンデルワールス力および立体的反発)は、Buckinghamポテンシャルによって最もよく記述される 。

Vnb=AeBrCr6V_{nb} = A e^{-Br} - \frac{C}{r^6}
  • 第1項 (AeBrA e^{-Br}): 短距離での電子雲の重なりによるパウリの排他律に起因する指数関数的な反発項。Lennard-Jonesポテンシャルの r12r^{-12} 項よりも物理的に正確であるとされる 。定数 A,BA, B は原子種に依存する。
  • 第2項 (C/r6-C/r^6): 誘起双極子相互作用(分散力)による引力項 。

この相互作用パラメータ A,B,CA, B, C は、炭化水素結晶の格子エネルギーや昇華熱の解析から決定される 。分子内においては、原子同士がファンデルワールス半径の和よりも接近した場合(立体障害)、このポテンシャルエネルギーが急激に増大し、これが「立体ひずみ(Steric Strain)」の正体となる。WestheimerとMayerは1946年にこの手法を用いてビフェニルのラセミ化障壁を初めて定量的に計算し、分子力学法の先駆けとなった 。


3. シクロアルカンの構造とひずみ解析#

3.1 シクロプロパン:曲がった結合と異常な安定性#

シクロプロパンは、27.5 kcal/mol27.5 \text{ kcal/mol} という大きなひずみエネルギーを持つが、その結合様式は単純な原子価結合理論では説明できない特異なものである 。幾何学的な C-C-C 角度は正三角形の 6060^{\circ} であるが、炭素原子が通常の sp3sp^3 混成軌道(指向方向 109109^{\circ})を用いると、軌道の重なりが極めて小さくなり結合が形成できない。

量子化学計算による電子密度分布の解析(図1参照)は、炭素原子間の電子密度の極大点を結んだ「ボンドパス(Bond Path)」が、核を結ぶ直線(幾何学的結合軸)上ではなく、環の外側に大きく湾曲していることを示している 。この湾曲した結合経路間の角度は約 7878^{\circ} であり、幾何学的な 6060^{\circ} よりも大きく開いている 。CoulsonとMoffittによって提唱されたこの「曲がった結合(Bent Bonds / Banana Bonds)」モデルは、シクロプロパンのC-C結合が sp3sp^3 よりも pp 性の高い(sp5sp^5 程度の)混成軌道によって形成されていることを示唆する 。

興味深いことに、環内の C-C 結合に pp 軌道成分が多く配分された結果、環外の C-H 結合には ss 軌道成分の高い(sp2sp^2 に近い)混成軌道が使われることになる 。これにより、シクロプロパンの C-H 結合は通常のアルカンよりも短く、かつ強固になる。事実、C-H 結合解離エネルギーは 106 kcal/mol106 \text{ kcal/mol} と、通常のメチレン基(98 kcal/mol98 \text{ kcal/mol})よりも約 8 kcal/mol8 \text{ kcal/mol} も高い 。この「C-H 結合の強化」による安定化効果(6本の結合で合計約 12 kcal/mol12 \text{ kcal/mol} 以上の安定化)がなければ、シクロプロパンのひずみエネルギーは 40 kcal/mol40 \text{ kcal/mol} を超えていたと推定される 。つまり、シクロプロパンの観測されるひずみエネルギーは、C-C 結合の弱化と C-H 結合の強化という相反する要因のバランスの結果なのである。

3.2 シクロブタン:パッカー構造とひずみの相殺#

シクロブタンのひずみエネルギー(26.5 kcal/mol26.5 \text{ kcal/mol})は、驚くべきことにシクロプロパン(27.5 kcal/mol27.5 \text{ kcal/mol})とほぼ同等である 。一般に、結合角が 9090^{\circ} であるシクロブタンは、6060^{\circ} のシクロプロパンよりも角度ひずみが小さいはずであり、ひずみエネルギーも大幅に小さくなることが期待される。なぜ同程度なのか?

その理由は「ねじれひずみ」と「非結合相互作用」にある。

  1. ねじれひずみ: シクロプロパンは構造的に平面固定されており、すべての C-H 結合が重なり配座(eclipsed)にあるが、これを解消する自由度がない 。一方、シクロブタンも平面構造をとれば8対の重なり配座が生じるが、環を折れ曲がらせる(pucker)ことでこれを緩和できる。実際、シクロブタンは約 3535^{\circ} のパッカー角を持ち、C-C-C 結合角を 8888^{\circ} まで減少させて角度ひずみを若干増大させる代償として、ねじれひずみを大幅に低減させている 。
  2. 1,3-非結合相互作用: シクロブタンの折れ曲がり構造では、対角線上に位置する炭素原子や水素原子が接近し、1,3-非結合相互作用(立体反発)が生じる 。分子力学的には、この反発項がシクロブタンの総ひずみエネルギーに大きく寄与している。シクロプロパンには1,3-相互作用が存在しない(すべての原子が互いに結合しているか、隣接しているため)。

結果として、シクロブタンでは角度ひずみの減少分が、残存するねじれひずみと新たな1,3-反発によって相殺され、総エネルギーとしてはシクロプロパンと同程度になっているのである。

3.3 中員環の特異性:Prelogひずみ#

シクロペンタン(SE 6.2 kcal/mol6.2 \text{ kcal/mol})やシクロヘプタン(SE 6.3 kcal/mol6.3 \text{ kcal/mol})は比較的ひずみが小さいが、シクロオクタンからシクロデカン(C8-C10)あたりの中員環は、再びひずみが増大する傾向を示す(例:シクロノナン SE 12.6 kcal/mol12.6 \text{ kcal/mol})。これは、環が大きくなることで柔軟性は増すものの、環の内側に向いた水素原子同士が立体的に衝突する「渡環相互作用(Transannular Interaction)」、別名Prelogひずみが生じるためである 。中員環は、結合角ひずみ、ねじれひずみ、そしてこの渡環反発の3者を最小化する複雑な配座(クラウン型など)を模索することになる 。


4. 多環式化合物と極限構造:幾何学の限界へ#

4.1 プロペラン類と「逆四面体」炭素#

ビシクロ環系におけるひずみは、通常は構成する単環のひずみの和に近い値をとるが、橋頭位(bridgehead)原子の幾何学的制約が厳しくなると、劇的なひずみの増大が見られる。 その極致がプロペラン類である。[1.1.1]プロペランは、3つのシクロプロパン環が1つのC-C結合(中心結合)を共有した構造を持つ。この分子の橋頭位炭素は、4つの結合すべてが半球側に位置する「逆四面体(Inverted Tetrahedron)」構造を強いられている 。 常識的に考えれば極めて不安定なはずのこの分子は、実際には室温で安定に存在し、約 100C100^{\circ}C まで耐える熱安定性を持つ 。ひずみエネルギーは約 98 kcal/mol98 \text{ kcal/mol} と巨大だが、これは3つのシクロプロパン環の単純和(27.5×382.527.5 \times 3 \approx 82.5)よりも大きく、その差は橋頭位炭素の異常な変形に起因する。 近年のab initio計算は、[1.1.1]プロペランの中心結合が、通常の共有結合(電子対の共有)というよりも、非結合性相互作用や電荷移動相互作用によって安定化されている可能性を示唆しており、単純な「ひずみ」の概念を超えた結合の本質を問いかけている 。

4.2 プラトン立体分子:テトラヘドランとキュバン#

正四面体骨格を持つテトラヘドランと、立方体骨格を持つキュバンは、対称性の美しさと極限的なひずみから、合成化学者の長年の標的であった。 キュバン(Cubane)のひずみエネルギーは 154.7 kcal/mol154.7 \text{ kcal/mol} と測定されている 。これは、シクロブタンのひずみ(26.5 kcal/mol26.5 \text{ kcal/mol})のほぼ正確に6倍(26.5×6=15926.5 \times 6 = 159)であり、キュバンの6つの面がそれぞれ独立したシクロブタン環としての性質を保っていることを示唆する驚くべき結果である 。 一方、テトラヘドラン(Tetrahedrane)は、シクロプロパン4つ分(27.5×4=11027.5 \times 4 = 110)を遥かに超えるひずみ(推定 140 kcal/mol140 \text{ kcal/mol} 以上)を持つと予想される 。無置換体は単離されていないが、4つのtert-ブチル基を導入したテトラ-tert-ブチルテトラヘドランは単離されている。これは「Corset効果」と呼ばれ、嵩高い置換基が互いに噛み合うことで、結合の開裂や異性化に必要な分子運動を物理的に阻害し、熱力学的には極めて不安定であるにもかかわらず、速度論的に安定化されている例である 。


5. アルケンにおけるひずみ(Olefinic Strain)#

二重結合を含む系では、π\pi 結合の平面性が損なわれることによるひずみが重要となる。これを Olefinic Strain (OS) と呼ぶ。OSは、アルケンのひずみエネルギーと、対応する飽和アルカンのひずみエネルギーの差として定義される 。

5.1 ねじれ型ひずみ(Twisting)#

π\pi 結合のp軌道が平行でなくなると、軌道の重なりが減少し、結合エネルギーが失われる。これが「ねじれひずみ」である。 最も有名な例は transtrans-シクロオクテンである。8員環の中にトランス二重結合を導入すると、環の幾何学的制約により二重結合平面は約 4444^{\circ} もねじれることが電子線回折実験から明らかになっている 。このねじれにもかかわらず、この分子は室温で安定であり、光学分割も可能である。 一方、分子間立体障害によってねじれが強制される例として、テトラ-tert-ブチルエチレンなどが挙げられる。計算によれば、平面配座では置換基同士の激しい反発が生じるため、二重結合が約 1616^{\circ} ねじれて安定化すると予測されている 。

5.2 曲げ型ひずみ(Bending / Pyramidalization)#

二重結合炭素が平面から逸脱し、ピラミッド型に変形することによるひずみである。 代表例は、Bicyclo[2.2.1]hept-1-ene(Norbornene)などの橋頭位二重結合を持つ化合物である。Bredt則として知られる経験則は、「小員環ビシクロ化合物の橋頭位には二重結合を形成できない」とするものである 。これは、橋頭位での二重結合形成が極端なねじれとピラミッド化を強いるためである。 しかし、環サイズが大きくなれば(例えば transtrans-二重結合を含む環が8員環以上)、このひずみは許容範囲内となり単離可能となる(例:Bicyclo[3.3.1]non-1-ene)。 MaierとSchleyerによる分子力学計算の見積もりでは、OSが約 21 kcal/mol21 \text{ kcal/mol} を超える橋頭位アルケンは、室温での単離が不可能であるという明確な閾値が提案されている 。Norbornene自体も、55^{\circ} 程度のピラミッド化(bending)が計算されており、これが高い付加反応性の要因の一つとされている 。


6. ひずみと化学反応性:反応速度論への影響#

「ひずんだ分子は反応性が高い」というのは一般的な通念であるが、常に正しいわけではない。反応速度は、反応物(基底状態)のエネルギーレベルだけでなく、遷移状態(Transition State, TS)のエネルギーレベルとの相対差(活性化エネルギー EaE_a)によって決まるからである 。

6.1 求電子付加反応:シクロプロパン vs シクロブタン#

シクロプロパンとシクロブタンは同程度のひずみエネルギーを持つ(27 kcal/mol\approx 27 \text{ kcal/mol})が、求電子試薬(酸など)に対する反応性は劇的に異なる。シクロプロパンは硫酸などで容易に開環反応を起こすが、シクロブタンは同条件下でほとんど不活性である 。 このパラドックスは、遷移状態の構造と位置によって説明される。シクロプロパンへのプロトン付加の遷移状態(エッジプロトン化シクロプロパン)では、環の結合角が拡がる方向へ構造変化し、基底状態のひずみが効果的に解放される。これが反応のドライビングフォースとなる。 一方、シクロブタンへの求電子攻撃においては、遷移状態でそのようなひずみ解放の寄与が少なく、またシクロプロパンに比べてC-C結合の塩基性(電子密度)が低いことも反応性の低さに寄与している 。

6.2 [2.2.2]プロペランの熱分解:禁制反応の加速#

[2.2.2]プロペラン (14) から 1,4-ジメチレンシクロヘキサンへの熱分解反応は、Woodward-Hoffmann則によれば軌道対称性禁制(symmetry-forbidden)のプロセスであるはずだが、実際には室温で速やかに進行し、活性化エネルギー EaE_a はわずか 22 kcal/mol22 \text{ kcal/mol} である 。 比較対象である Bicyclo[2.2.0]ヘキサン誘導体 (17) の開裂 EaE_a36 kcal/mol36 \text{ kcal/mol}、さらに1,4-架橋によって構造を硬直化させた Bicyclo[2.2.2]オクタン誘導体 (16) の EaE_a41 kcal/mol41 \text{ kcal/mol} であることと比較すると、プロペランの反応速度は異常に速い 。 この加速は、反応物であるプロペランが持つ莫大なひずみエネルギー(推定 34 kcal/mol34 \text{ kcal/mol} 以上の過剰ひずみ)が、遷移状態に至る過程で解放されることによる劇的なエネルギー低下効果によるものである 。ここでは、ひずみエネルギーの解放という熱力学的要因が、軌道対称性の壁という量子力学的障壁を実質的に低下させている好例である。

6.3 アセタール加水分解における立体的加速#

ひずみの概念は、環状化合物だけでなく、アセタールやケタールの加水分解反応速度の解析にも有用である。 Brownが提唱した「B-strain(Back strain)」の概念によれば、嵩高い置換基を持つケタール(sp3sp^3 炭素)が加水分解されてケトン(sp2sp^2 炭素)になる際、結合角が 109109^{\circ} から 120120^{\circ} へと広がり、置換基間の立体的混雑が緩和される 。 実際、置換基がメチル基からt-ブチル基へと嵩高くなるにつれて、加水分解速度は著しく増大する。Taftの立体パラメータ EsE_s を用いた解析により、この加速効果がエントロピー項(溶媒和の阻害など)とエンタルピー項(立体反発の緩和)の双方に起因することが示されている 。特に、カンファー(樟脳)誘導体のアセタール加水分解における発熱量の増大(ノルカンファー比で 4 kcal/mol4 \text{ kcal/mol} の差)は、この立体的ひずみの解放を熱化学的に実証するものである 。


7. 結論と展望#

Adolf von Baeyerによる1885年の提唱から1世紀を経て、ひずみの概念は定性的な直感から定量的な科学へと進化した。 Perkinらの合成研究、1950年代の熱化学データの蓄積、そして1970年代以降の分子力学法(MM)およびab initio量子化学計算の発展により、我々は結合長、結合角、ねじれ角、非結合相互作用という4つの要素のバランスとして分子構造を精密に理解できるようになった 。

シクロプロパンの「曲がった結合」の電子密度解析や、プロペラン、キュバンのような極限構造の安定性と反応性の解明は、化学結合の本質に対する深い洞察を提供した。また、Wibergらが示したように、ひずみエネルギーは単なる不安定化因子ではなく、反応経路を制御し、特異な反応性を引き出すための強力なドライビングフォースとして機能する 。 今後、より高精度な計算手法と実験技術の融合により、酵素反応場におけるひずみの役割や、新規な高ひずみエネルギー物質の設計など、有機化学におけるひずみの概念はさらなる広がりを見せることであろう 。


参考文献#

本記事の記述は、以下の文献に基づいている。

[1] Wiberg, K. B. “The Concept of Strain in Organic Chemistry”, Angew. Chem. Int. Ed. Engl. 1986, 25, 312-322. (Primary Source)

有機化学における「ひずみ(Strain)」の概念:Wibergによる定量的評価と反応性制御の包括的レビュー
https://ss0832.github.io/posts/20260103_physorgchem_strain_energy/
Author
ss0832
Published at
2026-01-03

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