最終更新:2025-12-29
注意: この記事はAIによって自動生成されたものです。正確な情報については、必ず引用元の原著論文をご確認ください。
はじめに
密度汎関数法(DFT)の歴史において、1988年は一つの転換点として記憶されている。それまで、Kohn-Sham理論の実用的な計算は、主に**局所密度近似(LDA)**に依存していた。LDAは均一電子ガスのモデルに基づく単純な近似でありながら、金属のバンド計算などにおいて予想外の成功を収めていた。しかし、原子や分子のような有限系、特にその結合エネルギーの計算においては、LDAは一貫して結合エネルギーを過大評価する傾向があり、化学的な精度(chemical accuracy)には遠く及ばなかった。
この状況を打破するために提案されたのが、電子密度の勾配(gradient)を取り入れた一般化勾配近似(GGA: Generalized Gradient Approximation)である。その中でも、Axel D. Beckeによって提案されたBecke 88 (B88) 交換汎関数は、交換エネルギーの記述精度を劇的に向上させ、その後のDFTが化学分野(量子化学計算)へと爆発的に普及する道を開いた。
本稿では、Beckeの原著論文 “Density-functional exchange-energy approximation with correct asymptotic behavior” に基づき、なぜ単純な勾配展開ではうまくいかなかったのか、そしてBeckeはどのようにして「正しい漸近挙動」を汎関数に組み込んだのかを、数理的側面から詳細に解説する。
1. 局所密度近似(LDA)の限界と勾配展開の失敗
B88の導出に入る前に、当時のDFTが直面していた課題を整理する必要がある。
1.1 LDAの欠点
LDAの交換エネルギー は、各点における電子密度 を用いて、その点が均一電子ガスであると仮定した場合の交換エネルギー密度を積分することで得られる。
Beckeは論文の冒頭で、LDAが原子の全交換エネルギーを約5〜10%過小評価(絶対値としては不足)していることを指摘している。この誤差は体系的であり、原子番号が大きくなるにつれて絶対量は増大する。
1.2 勾配展開近似(GEA)の失敗
密度が空間的に変化する系(不均一系)を扱うための自然な拡張は、密度の勾配 を摂動として取り入れることである。これを勾配展開近似(GEA: Gradient Expansion Approximation)と呼ぶ。 しかし、歴史的に見て、交換エネルギーに対する単純なGEAの適用は失敗の連続であった。
最低次の勾配項を含むこの式を適用しても、原子の交換エネルギーの精度はLDAよりもむしろ悪化することが知られていた。 その物理的な原因は、GEAによって導かれる交換正孔(exchange hole)が、電子から遠く離れた場所で物理的にあり得ない振る舞い(正の値を取る、あるいは規格化条件を満たさないなど)をするためである。一般化勾配近似(GGA)とは、このGEAの病的な振る舞いを、「カットオフ関数」などを導入して強制的に修正するアプローチの総称と言える。
2. 理論的基礎:エネルギー密度の漸近挙動
Beckeのアプローチが革新的だった点は、交換エネルギー密度が満たすべき**「遠方での漸近挙動(Asymptotic Behavior)」**に着目し、それを満たすように関数形を逆算したことにある。
2.1 電子密度の漸近形
有限系(原子や分子)において、原子核から十分に離れた領域()では、電子密度 (スピン の電子密度)は指数関数的に減衰する。
ここで、 はイオン化ポテンシャルに関連する定数である。
2.2 交換エネルギー密度の漸近形
一方、ある位置 にある電子が感じる交換ポテンシャル(および交換エネルギー密度 )は、電子が遠方に去った場合、残された「正孔(ホール)」とのクーロン相互作用に支配される。 電子が無限遠にあるとき、交換正孔は原子付近に局在したままとなるため、電子は正孔(電荷 の点電荷とみなせる)からのクーロン引力を感じるはずである。したがって、交換エネルギー密度は以下の漸近形を持たなければならない。
(注:ポテンシャルとしては だが、エネルギー密度としては が掛かる)。
2.3 LDAの矛盾
しかし、LDAの交換エネルギー密度は に比例するため、密度の漸近形(指数減衰)を代入すると以下のようになる。
これは指数関数的に急激に減衰してしまい、本来あるべきクーロン相互作用の長距離テール()を全く再現できない。これがLDAの誤差の物理的な起源の一つである。
3. B88汎関数の導出
Beckeは、この漸近挙動の不整合を解消するための補正項を設計した。
3.1 変数の定義:被約勾配
まず、スピン分極した系を考え、全交換エネルギーを各スピン成分の和として表す。
次元解析の観点から、交換エネルギー汎関数は以下の形式を取る必要がある。
ここで、 は無次元化された**被約勾配(reduced gradient)**である。
3.2 漸近条件の適用
の領域において、密度が で振る舞うとき、被約勾配 は発散する。
Beckeは、この極限()において、補正項を含む全交換エネルギー密度が正しい の挙動を示すためには、補正関数 が に関する特定の関数形でなければならないことを導いた。 具体的には、補正後のエネルギー密度が以下のようになることを要請した。
代数的な操作を経ると、大きな に対して が以下の挙動を示す必要があることがわかる。
3.3 Beckeの提案した関数形
上記の漸近条件(分母に が必要)と、 の極限で勾配展開の形式()に一致するという条件を同時に満たすために、Beckeは以下の関数形を提案した。
ここで、逆双曲線正弦関数 が用いられている点が巧妙である。
- のとき: であるため、分母は定数に近づき、全体は に比例する(通常のGEAと整合)。
- のとき: であるため、分母は のオーダーとなり、全体として の挙動を示す。これにより、密度の指数関数的な減衰と打ち消し合い、ポテンシャルの 依存性を回復させる。
最終的なB88交換汎関数の形式は以下の通りである。
4. パラメータ の決定
Beckeの理論的枠組みは強固であるが、式中に含まれる係数 の値は理論だけからは一意に定まらない。ここにおいてBeckeは、**「半経験的(Semi-empirical)」**なアプローチを採用した。
4.1 フィッティング対象
彼は、希ガス原子(He, Ne, Ar, Kr, Xe)のHartree-Fock(HF)交換エネルギーを「正解」とし、これらを再現するように を最小二乗法で決定した。 HF交換エネルギーは、既知の正確な電子密度を用いて計算された。
4.2 決定された値
このフィッティングにより得られた値は以下の通りである。
論文のTable IおよびTable IIIには、このパラメータを用いた計算結果が示されている。 例えば、キセノン(Xe)の場合:
- 正確な交換エネルギー(HF): -179.14 a.u.
- LDAによる計算値: -170.60 a.u. (大きな誤差)
- PW86(先行するGGA): -179.94 a.u.
- B88による計算値: -179.20 a.u. (HF値と極めて良い一致)
Beckeは、この という値が、原子の種類によらず普遍的に良い結果を与えることを確認した。これは、物理的な漸近条件という「拘束条件」が効いているため、単なる数値合わせ以上の普遍性を獲得していることを示唆している。
5. 議論と学術的意義
5.1 既存の近似との比較
論文中では、先行するGGAであるPerdew-Wang 86 (PW86) との比較も行われている。PW86も勾配補正を含んでいるが、漸近挙動の厳密な制約は課されていなかった。Beckeは、B88がPW86よりもさらにHF値に近い結果を与えることを示し、特に交換エネルギー密度の空間分布において、原子核から離れた領域での改善が著しいことを強調している。
5.2 唯一のパラメータ の意味
式中の分母にある係数「6」は、理論的な要請から決まる値ではないが、フィッティングの過程で と共に調整されるものではなく、 が決まれば漸近条件を満たすために自動的に固定される係数として扱われている(論文中では の形を想定し、漸近条件から のような関係式を導いているが、最終的な簡略化された式では という係数が採用されている)。
5.3 その後の発展への影響
このB88汎関数は、単体で使用されるだけでなく、適切な相関汎関数と組み合わせることで真価を発揮した。
- BLYP: B88交換 + LYP相関(Lee-Yang-Parr)。
- BP86: B88交換 + P86相関(Perdew 86)。
さらに、後の1993年に提案されたハイブリッド汎関数 B3LYP においても、その交換項の主要な部分(勾配補正部分)としてB88の形式が採用されている。これは、B88が経験的パラメータを含みつつも、その背景にある物理的考察が極めて堅牢であることを証明している。
結論
Becke 88 交換汎関数は、LDAが抱えていた「遠方でのポテンシャルの誤り」という物理的な欠陥を、数理的に洗練された補正項(逆双曲線正弦関数を含む項)によって解決した手法である。 その導出過程は、純粋な理論的要請(漸近挙動)と、実用的なデータへの適合(半経験的フィッティング)を見事に融合させた例であり、計算化学におけるGGAの標準形を確立した画期的な研究であると言える。 B88の登場により、DFTは固体の物性物理学にとどまらず、原子・分子の精密なエネルギー計算を必要とする化学の領域においても、必須のツールとしての地位を確立するに至った。
参考文献
- A. D. Becke, “Density-functional exchange-energy approximation with correct asymptotic behavior”, Phys. Rev. A 38, 3098 (1988).
